漫画は好きだけれど、あまり作者で買うということをしない。同じ作者でも作風が違うことは多いし、その人が描いたからと言って全部が全部面白いとも限らないのが、じっさいのところだ。
しかしながら、何名か、もうこの作者ならとりあえず買うわという漫画家もあって、ÖYSTERとか、桜玉吉とかあさりよしとおとか……
いや、やっぱり作品による。
ハイテンションなギャグ4コマを得意とするÖYSTER作品はけっこう好いていて、明らかに子ども向け方針の『ティラノ介』以外は持っている(厳密にはゼルダの伝説コミカライズも持っていないが)。
桜玉吉はどうも「明るい頃」の作品は肌に合わず、うつ病と幻想世界渦巻く漫玉日記シリーズや、男同士のバカ旅の雰囲気が見易く味わえる『なぁゲームをやろうじゃないか!』などが面白く感じる。
あさりよしとおは、カールビンソン、ワッハマン、まんがサイエンス、その他単巻は持っているが、『荒野の蒸気娘』や、面白くなる要素のないだろう『くわがたツマミ』などは持っていない。意外に『るくるく』もそう言えば持っていないのだ。
この系統では怪奇・ブラックユーモア漫画を得意とする高橋葉介も難しいところで、非ッ常に好きな漫画家なんだけれど、長編になるほど初期のテンションを保てず設定を変えることがある。例えば『夢幻紳士』という20年以上続く一連のシリーズでもマンガ少年版と外伝は近いな、幻想篇以降もこれは好きだなと思っても、間に含まれる冒険活劇篇はやっぱりちょっと違うだろうということがある。
そう考えると、手塚治虫は死ぬまでテンション、作風、作品コンセプトが変わらなくて、やっぱりスゲエなと感じる。
ただし七色いんこを除く。-----------------------
そんな中にあって、ほとんどの単行本を買い漁っている漫画家が、須藤真澄だったりする。
メジャー誌での掲載がせいぜいアフタヌーンなのでマイナー漫画家の部類に入るのだと思うけれど、とにかく、好きである。強いて言えばねこ漫画がいまいち。結局放任しているだけの不衛生な育て方も「うちの子は可愛いから」だけで済ませてしまっているので。
ただ愛猫の死を描いたエッセイ『長い長いさんぽ』は、ええと、泣いた。やばいよ、あれ。かなり押し付けがましさを削いだうえでデフォルメをきかせ、冷静に、しかし真に迫ってペットの死を辛く描いているから。
なんだっけ。
実はここまで全部前置きなのよ。
6/25に『水蜻蛉の庭』が発売されて、ようやく買ったもので、記念に、じゃあ須藤真澄漫画を読み返してみよう、いいシーンを抜き出してみようと、そういうわけなのだ。
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『電気ブラン』というのが、最初の短編集だそうで、気の字が旧字体だったのだけれど、私の持っているのは復刻版の『電気ブラン』である。
絵は少女漫画になりきれない古臭さがあり、内容も悩める女学生が何かしら外的要因によってちょっとずつ強くなったり、または単純に怪異に触れるというありがちな物だけれど、いや、もともとセリフの多い漫画家なのか、面白い場面は多い。
「この子の名前知ってるかね? 木乃枝って言うんですよ。そしてあたしの名前も木乃枝。ね。そんな風に考えてごらんよ。あたしとこの子はあんたの分身なんだ…。あんたの過去と未来の姿なんだってさ。人間を恐がることはないんだよ。みんなあんたと同じように悩んだり、あたまおかしくなったりしてるんだから。今、あんたがあたしの所に飛び込んで来てくれたように、他の人の所へも行けるようになればいいんだけど――取りあえず一番最初に――あたしたちが分身になるよ。何も考えないこの赤子と何もかも考え尽くしたこの老婆が、もがいているあんたの心の端と端をしっかりつかまえて、どれだけ揺れても大丈夫な足場を作ってあげる。肩の力を抜いてごらん。あんたはもう、ゆったり、ゆったりしていていいんだよ」(黄金虫/老婆)
試験に悩む女学生に対して、これである。長い!
ただとにかく、言葉を、選んで、紡いで、主人公の役に立とうとする気概がある。それでなくても、“みんなあんたと同じように悩んだり、あたまおかしくなったりしてるんだから。”というのはなかなか気を楽にさせるセリフだ。
「興味がおあり? この本にだけど。おじさまはどんな読み方するのかしら。わたしはまず平仮名の数を数えるの。それから片仮名。漢字。さんずい。のぎへん。くさかんむり。くっくっくっくっく……」
「やまいだれがいーちにーさーんしーごー」(告知/セーラー服の女学生“麻憂”)
不思議ちゃん系も面白い。
この話は子供の出来ない夫婦が揃って“麻憂”と名乗る少女に惹かれてしまう話で、解りやすい面白さがある。
1989年発売の「観光王国」には『アスパラガス☆ハイ』という恐ろしい話が載っている。
フケの代わりに麻薬を零してしまうホームレスの男と出会ってしまった少女が、同じ体質になってしまったうえ、精神病院に押し込まれていた男と再会すると言うオチ。小学生女児が麻薬で狂気的な世界を見るシーンもやばけりゃ、成長後にその記憶を思い出し、「月、キレイだね」と精神病院の檻の外から男に話しかける最後のコマも怖い。
そして更に上回る恐怖譚が「マヤ」収載の『鶏頭樹』。
新種のニワトリの卵が学校に出現、とげだらけのその卵が割れると、周囲の人間はニワトリになってしまうと言う、土台はゾンビもの的なのにやや可愛らしい話。
しかし、主人公のひとりだけ校内に残り、友達が警察に知らせに外へ出てからが怖い。「夜明けと共に校門の外からニワトリの鳴き声が聞こえる」オチが恐怖漫画として成り立つのは、たぶんこの作品だけだろう。
『ナナカド街綺譚』の話。
須藤真澄漫画のなかで一番好きな作品だ。
ややネジの外れた女の子・なのはが、「七つの突起がある星型の街」ナナカド街を、ひとつずつ探検しに行く全七話。
特異な形の街、ひとつずつ突起で起こる不可思議なできごとというコンセプトが、わかりやすく冒険心を刺激して面白い。
この漫画の中で好きであり、また作品の意図を明確に示すやりとりがこれ。
「あたし、なのは。しかしこれからは探検くんと呼んでくれたまえ」
「なのはか。いい名だ」
「今ね、この町のかどっこをひとつひとつ探検してるんだ」
「へー…動機はなんだったの?」
「……んーむ。地図見てたら、その場所に呼ばれてる気がしたの。……えとね。その場所に面白いものがあっても、それを面白いと思う人がいなきゃ面白くないでしょ? 地図がおまえも面白がりにおいでーって、呼んでる気がしたの」大変、好奇心の正体をよく表していて素敵な言葉だと思う。
最後に、傑作『アクアリウム』のセリフ。
作品自体が魚と会話できる少女の、乳児から母親になるまでを描いた一大ドラマなのだけれど、この作品の素晴らしいのは、そんなふうに「ある人間が赤ん坊から子供に、子供から大人になる」面白さを、全く名前も設定されていない脇役に言わせてしまっていることだ。
居酒屋の爺のセリフに、全部詰めてしまったのだ。
「いろんなお客さんがみえるけどね。常連さんや一回こっきりさんや、おねえさんたちみたいにまた訪ねてくれる人も。おじさんはこん中にいて、みんなの話聞いて…笑ってんの見てさ。うん。なかなかおもしれえ商売だと思うね」主人公だけでなく、美術学生から、腐れ縁の男友達と結婚した叔母のドラマも垣間見える作品だからこそ、控えめなりにかなり光るセリフだと感じられる。
須藤真澄作品は、SFであることを押していて、実際に日常を舞台にした確かにファンタジーなのだけれど、日常であることを武器にした「単なる人と人のつながり」に重きをおいたセリフが、とても良かったりする。
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