ちっちゃいころ、それも、小学校にも上がる前だったと思うが、その頃『まんがタイム』系のファミリー誌で見た4コマ漫画で、今も覚えているネタがある。
セリフの言い回しこそうろ覚えだが、ネタの運びは大体こんな感じだった。
その、まあ、くだらない。ひねりも無いし、幾ら90年代初めの漫画とは言え、古典的すぎる。ではなぜ、当時5歳くらいだった私がコレを強烈に覚えているのかと言うと、
納得が行かなかったからである。
なぜ、
なぜこの漫画のお父さんは、
「但し、俺同伴な」と言うセリフをディスコに着いてから言うのか。自身の日常に合わせて考えて、このセリフは3コマ目と同じ場面、つまり家の中で既に言われていなければならないはずだ。そう思ったのである。
現地に着いて初めてそれを言ったとすると、じゃあ家からディスコまでの間はどのようなやり取りがなされたと言うのか? 仮にお父さんが勝手についていって、現地で合流したとしても、「但し~」では会話が繋がらないのではないか――と。
当時その理由を母親に尋ねた記憶まであるが、恐らく納得の行く回答はしてもらえなかっただろう。だからこそ、ずっとこのネタを覚えているのだ。
だがさすがに、今となっては解る。
疑問は、「漫画の文法だから」の一言で片付くのだ。
4コマしか無いのだから、場面転換できるのであればした方が面白くなる事が多い。ネタだけを重視するならば、上記の漫画だって、
これが4コマ目でも良かったのだ。
でもやっぱりこれでは、笑いの要素にひとつ重要な、飛翔感めいたものが欠けてしまう。地味なのだ。
そこに作者の技術なりセンスなりを反映させた結果が、例の「現地に着いてから、突然会話をオトす父」なのだろう。
そしてそのせいで場面上の時間軸と、会話上の時間軸がかみ合わなくなり、そこに生まれた歪みが、漫画を読み慣れていなかった私に「納得が行かない」と言う感想を引き出させていたのかもしれない。
ここ10年ほど、4コマ漫画には「シュール」と言うジャンルが跋扈している。
それは「不必要なはずの間」であったり、「意図が見えない言動」であったり、最も代表的なものでは「オチた感じをさせない宙ぶらりんな展開」の事を指す。
しかし、ここで冒頭の4コマのうち、3コマ目と4コマ目を交互に見て頂きたい。
これはこれで、シュールと呼べる飛躍がなされてはいないだろうか?20年も前の漫画のはずだが、家からディスコへの「場面の跳躍」、その一方でスムースに繋がる「会話の直結」。この2つの時間軸のズレは、それこそシュールを生み出している気がする。
また、単なる視覚的効果の違いだけでシュールと呼ばれる事もある。
例えば下の1と2、どちらがよりシュールだろうか。
これは、間違いなく2のほうがシュールだろう。「わ あ い」だし。
ネタサイトで拾ったこれだって、文字が全て書き文字だったなら、かなりシュールさは殺がれると思うのだ。活字で「わぁーッ」「ヒョーッ」なものだから、妙なおかしみがある。
「シュールな表現」には、様々なものがある。
冒頭に上げた漫画であれば、時間軸の不自然な跳躍。
途中に上げた例は、不必要な間の挿入、意図の見えない言動、宙ぶらりんな展開。
そして最後に上げたのが、活字の効果音だ。
これらに共通するキーワードがあるならば、それは「読者が疑問を挟む余地」ではないかと思う。
あれ? 展開が飛んだ?
あれ? こう言う漫画だっけ?
あれ? オチは?
あれ? 何でわざわざ写植したの?
そう、「読者が、
漫画の構造について疑問を挟む余地」だ。
これが探偵もので、容疑者の不可解な行動を描写したコマであれば、疑問に思いこそすれシュールとは思わない。それはあくまで漫画の内容についての疑問になる。
それが、例えば金田一やコナンに登場する「黒ずくめの人物(犯人)」が、特別なシーンで無くても黒ずくめで、主人公たちと一緒に黒ずくめのまま食卓を囲んだりしていると、シュールになる。「え? 作者はどう言う表現したいの?」と、作品世界から離れ、漫画の構造を疑うからだ。
その昔、『ルパン三世』が始めて世に発表された時、漫画好きや他漫画家は衝撃を受けたと言う。
今でこそ見慣れているが、「ルパンが女性の肩に手をかけると、次のコマではもう顔を腫らしてぶっ倒れている」と言う省略された展開が斬新だったのだ。
もし、この時の衝撃を今の漫画好きが受けたなら――
「あれ? ビンタされている部分は?」
恐らく、“シュール”と表現すると思うのだ。
漫画の内容に没頭するより早く、漫画の構造に違和感を覚えた時に、その作品はシュールになる。これが、ふと思い立った私の仮定である。
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